山口県における合気道の始まりについて

ー山口県合気道の歩みー

 

 世の中に合気道が登場し、広まり始めたのは今から百年ほど前、大正時代末の1925年頃のことでした。 

 当時、東京で講道館柔道に打ち込んでいた山口県出身の村重有利先生が、植芝盛平開祖と出会ったのは、昭和5年、村重先生35歳、開祖47歳の時でした。この出会いが山口県に合気道が伝わる発端となりました。

村重有利 師範

 (合気道九段)

村重有利先生(明治28年生、山口出身)は、16歳の時に志を立てて上京し、仕事に勤しむ傍らで、寝食を惜しんで一日7道場に通う等、並々ならぬ熱意で武道に精進されました。また、武道の修行も幅広く、講道館で柔道を修行中には、創始者嘉納治五郎先生の高弟であり、更に剣道、居合道、棒術、空手、鎖鎌、槍術、なぎなた等は何れも教師免状を拝されていました。あらゆる武道に精通した後、合気道創始者である植芝盛平先生の門をたたき、以後、終生を合気道に投げ打つ決心をされました。終戦後、昭和28年から6年間、ビルマ警察大学にて武術師範を経て帰国後、柳井の地で合気道を有志に教授され、現在の山口県の合気道の誕生に携わられました。昭和36年ベルギー政府の招来を受けて渡欧し、合気道普及に活躍される中、昭和39年、交通事故により死去、惜しまれつつこの世を去られました。享年68歳でした。当時合気道では日本最高段位の九段を許されていました。

 

(村重先生の講話の様子について、柳井道場通信vol.11『武士道講座』で触れています。)

 

 


初代山口県支部支部長

沼田敏男先生

(剣道八段範士)

沼田敏男先生(明治33年生、広島出身)は、小学校6年生の時に剣道を始め、その後中山博道、持田盛二、高野茂義各範士といった斯界でも著名な先生方の指導を受けながら、剣の技術のみならず礼儀、和、正義といった精神的な面も教えられ、一層剣の道に励まれました。28歳の折に山口県立大島商船学校の武道教師として迎えられ、以後、剣道を志す後進の指導、育成に力を注がれました。昭和32年頃、57歳で合気道に入門し、合気道開祖、植芝盛平先生に師事して合気道を学び、その後同先生の高弟であった村重有相先生を師事されました。昭和34年、財団法人合気会山口県支部(現在の山口合気会)を創立され、初代支部長に就任し、若かりし中村克也(現、山口県合気道連盟会長)先生を物心両面で支えられ、後事を託して昭和538月、ご他界されました。享年79歳でした。沼田先生の称号と段位は、全日本剣道連盟範士八段、全日本剣道連盟居合道錬士五段、合気道六段でした。